2017年2月24日金曜日

ミホノブルボン死す

1992年、皐月賞、ダービーを取って無敗の二冠馬となったミホノブルボンが老衰で死亡。28歳。

ミホノブルボンは父マグニチュード、母カツミエコー、母の父シャレーと言う血統。
この組み合わせ、本当は違う馬のほうが良かったんだが、お金の都合でこうなったとも言われています。

俗にマグニチュードは血統がにている、当時地方競馬などで産駒を活躍させていたミルジョージの「代わり」の種牡馬、またシャレーはビゼンニシキを出したダンディールートの代わりだったと。

ミルジョージとダンディールートは相性のいい組み合わせで「安価な代わりの馬で」その相性の良さを狙ったとも言われている。この辺は確か当時の「優駿」の生産者インタビュー記事で出てたんじゃなかったかな?

もっともマグニチュード自身、それなりにいい馬をたくさん出したし、ミホノブルボンの牝系も日本を代表する名牝系であるロッチ系でむちゃくちゃ血統が貧弱なわけでもない。
ただし当時の取引価格が700万円ということで「それほど素晴らしい」うまではなかった。

この馬を引き受けた戸山調教師は、1985年にできた栗東トレセンの「坂路」施設を使ってトレーニングすることにした。
今でこそ一般的な坂路調教だが、出来た当時は「リフレッシュ」とか補助的な調教施設と考えられてきた。

しかし戸山調教師は「坂路調教」メインのスパルタ調教を行うことで馬が強くなると考えた。
ミホノブルボンは当時500mの坂路を30秒切るという驚異的なスピードで駆け上がり、力をつけていく。。一日4本の調教は故障と隣り合わせのスパルタ調教でもあった。

ミホノブルボンを「本来はスプリンター」だと語っていた戸山調教師。
しかし馬の場合は鍛えればある程度のスタミナはつく、というのが戸山流の考えで、それはミホノブルボンの菊花賞二着でも証明されたとも言える。

しかしながらミホノブルボンは怪我で菊花賞が最後のレースとなってしまった。
その菊花賞当時、戸山調教師は食道がんを患っており、自分はもう長くないと知っていたとも言われています。故障から復帰できないミホノブルボンを気にしながらなくなったのは93年5月29日。奇しくもダービー前日のことでありました。
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余談だが、980年代までは関東と関西の競走馬では関東のほうが強かった。

今でも覚えているが、1987年の年末。12月のはじめに鳴尾記念に勝った関西馬のタマモクロスは、望めば有馬記念に出走することが出来た。
しかし、そこで負けるよりも年初の金杯で勝つことを選んだタマモクロスは有馬記念を避けた。

口さがない関東の競馬マスコミは「そんなこと(大勝負を避けて、確実に勝てる方を選んだこと)してるから関西馬はいつまでたっても勝てないんだ」とあざ笑った。

しかし。
そのタマモクロスは金杯を勝つと阪神大賞典もぶっこ抜き、天皇賞秋までG1三連勝を遂げる。
その後オグリキャップやヤエノムテキなど関西馬の時代がやってくるのだ。。

関東はまた数年で盛り返せると思っていたかもしれん。しかし坂路調教を武器に圧倒的強さを見せたトウカイテイオーと翌年のミホノブルボン。この二頭の二冠馬が関東にトドメを指した。

ミホノブルボンは象徴的存在だったと言えるでしょうね


そのあと、関東(美浦トレセン)も坂路を作るなど施設面で追い上げますが、30年たった今もまだ関西馬有利の流れを押し返すには至っていません。

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