2016年10月1日土曜日

芦部的憲法論と改憲

新天地は芦部教授の授業を受けたことはありませんが、憲法の授業は芦部教授の教え子の教授から単位をもらいました。教科書は国家と法1。(当時は「憲法」という教科書はまだ出ていなかった)

なので強く、その影響を受けています。

真面目に司法試験合格するつもりだった新天地は、憲法の成績だけは良く、教授に「憲法だけだったら試験受かる」と褒められたことがあります。
(他はダメダメ、といういみでもありますが w)

芦部教授というのはアメリカ的な発想と、どちらかと言えばリベラルな発想、そして結構現実的というか「いや理想論じゃなくて自分たちがここはこうだ、と決めていこう」という非常に意欲的でもあった人だと僕は勝手に解釈しています。
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幾つかポイントがあるんですが(僕の主観がまじります)

例えば人権の制限。
憲法では人権は公共の福祉によって制限を受ける、とされています。

当然保守的な考えから行けば「公共の福祉」という御旗によれば人権を制限できる、なんでもしたい、という発想が出てきます。(これも一理はあります)

これに対して芦部教授が打ち出して広く影響を与えた考え方が

「自由国家的公共の福祉と社会国家的公共の福祉の二つの側面があるとの内在的制約説」

です。(ここ、テストに出るよ。首相が芦部を知らない、でも公共の福祉による制約を増やした憲法改正をしたい、というのを聞いて「アホか」とおもうのはここなんです。)

人権を制限する「公共の福祉」には「2つの側面がある」(ので制限にも2つの側面があるわけです。こうきょうの福祉だからと言ってなんでも制限できるわけではないよ、と言う考えですね)
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言い換えると(ここ、テストに出ます)経済的自由に比して精神的自由の優位性を認める二重の基準論、ということになります。

精神的自由は経済的自由に対してより守られる、とも言えるかもしれません

僕独自に考える勝手な例で言えば
「ヌード」を考えましょうか

表現の自由という観点からいけば「ヌード」を発表する自由もよりそんちょうされるべきなのかなと。
これがしかし「広告」目的で発表されるとなるとそれは「経済的自由」である側面を持つ。

純粋に「芸術目的」な作品と「広告目的」の作品では「精神的自由」と「経済的自由」の
2つの側面において制約の度合いが変わってくるべきだろうと。

こういう考えを日本で広めたのが芦部教授ということになります(異論は認めない)

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翻って為政者の立場から行けば「精神だろうが経済だろが、公共の福祉で何でも人権を制限できる方がやりやすい」。二重の基準?なにそれ食べれるの?ってな話になります。

改憲(という名前のフリーハンド)が欲しい安倍政権にとっては勉強する価値さえないのかもしれませんが。。
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改憲論議は盛り上がるでしょう。

俺にはわからん、と言う人はぜひ書店で芦部教授の「遺作」である「憲法」を読んでみてください。

「内在的制約論」と「法創造機能」(裁判所の判例が一種の法律として機能するという考え方)、国会が「社会的代表である」と言う考え方。いまでは当たり前になっているこれらの考え方を日本でかためたのが芦部教授の「偉大」な功績。

これが基礎になって今の(改憲が行われていない2016年の)憲法体系が動いているんだということを是非考えて貰いたいのです。

いまからこの憲法がどう変わっていくのかはわからない。でも戦後もたらされた「押し付けられた」憲法と学者がどう向き合ってきたのかが一冊にまとめられた本なのです。
難しい本ですけどね。そりゃ。でも世界中探してもこれよりいい憲法の教科書はありません。
きっぱり。

知らないでも総理大臣にはなれますし、改憲を発議できますがw

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