2013年10月25日金曜日

老少不定

新天地は真宗高田派のお寺の生まれです。

仏教に詳しくない人のために大雑把に解説すると、もともと、天台宗というのが有りまして、そこで学んだ鎌倉時代のお坊さんの「法然」という人が浄土宗という物を開きます。法然は念仏を体型化し、念仏重視的な仏教を広げます。乱暴に言えば、念仏を唱えれば仏様の身許に導かれると。(極論です)。修行とかよりも念仏を唱える信心を重視することで仏教のさらなる大衆化も目指したんですな。また中国の影響が強い天台宗をさらに日本化した動きといえるのかもしれません(これも僕の極論)

さらに法然に弟子入りしていた親鸞という人が「われこそは浄土宗の中の真宗」ということで「浄土真宗」と呼ばれる宗派を作っていくことになります。まあ要するに法然没後のお経の解釈の違いとか、高弟同士の派閥争いとかあったんでしょうな。

(なお、浄土真宗、という呼び方は浄土宗側からみればおもしろくないわけで、この名称は江戸幕府に禁止されたりして、真宗10派と呼ばれる宗派の内9派は現在でも「真宗」と名乗ります。明治政府が「浄土真宗」を名乗ることを明治五年に正式に認めますが、現在は浄土真宗と名乗るのは西本願寺のみであります。。
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余談が長くなりました。真宗の教えの中にもいろいろあるのですがそのポリシーの一つに老少不定という教えが有ります。これはどうやら仏教的にも実に日本的な考えらしく、(学会的には疑問もあるようですが)平安時代の源信の著作とされる観心略要集に初出とされます。

つまり
>人間の寿命がいつ尽きるかは、老若にかかわりなく、老人が先に死に、若者が後から死ぬとは限らないこと。人の生死は予測できないものだということ。▽人生の無常をいう仏教語。「不定」は一定しないこと、決まった法則や規則がないこと。「少」は若い意。

であると。これを法然が説き、親鸞も受け継いだことで真宗の教えのポリシーの一つになっています。仏教には現世利益(信心すればいいこともある)がつきものですが、こと浄土真宗においては、信心しても(長生きできるとは限らず)それは定まりのない、どうしようもない物である、と。

普通の人の感覚では、親よりも子が先に死ぬことをとても悲しいことだとします。あるいはとても信心深い人が若く死に、とても罪悪を重ねたひとが長生きすることもあるでしょう。
またごしょさんで言うように朝あんなに元気だった人が夕方には冷たくなってしまう、そんなことも有ります。それはいかんともし難いことである、と説くわけです。。。

南無阿弥陀仏と唱えることで仏様の身許に行ける。その事のほうが今の世で長生きすることによりも大事である。救われる。そういう考えかもしれませんね。
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これをどう捉えるかは人それぞれ。死を目の前にして心の安らぎを手に入れるなら、それで良いのかもしれませぬ。100%そうだとも思えませんが。。

ただひとつ言えることは必ず人は死ぬということ。そしてそれはいつかわからないということ。今日かもしれないし何十年か後かもしれん。でも必ず終わりはやってきます。

月並みですが、その間になにか悔いの残らないように生きるようにしなければいけないのだな。そんなふうに思ったりするのです。僕の場合はブログをかいたり、少しでも今いる会社を良くして死後も残していけるようにしたり、あるいは奥さんと仲良く暮らしていくこと、でしょうか。

だって大事な家族だもの。(その割にはイライラさせることしかしないと苦情が出てますが)。
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いま知己の複数の「死」を目の前にして、自分の人生についても考える、そんな新天地でした。

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