2012年3月24日土曜日

私服 制服 雌伏

昨日テレビを見てたら、「私服を廃止して制服を取り入れた学校」をテレビでやっていた。今の一年生から制服を義務化したところ、義務化されていない2,3年生まで制服を着るようになってしまい、私服派は少数なんだとか。意見を聞いていると「みんなと違う」ことを恐れる心理を見て取れる。

自分はその昔制服のない、服装が100%自由の高校に通っていたので、(羽織袴と下駄のみ禁止)ぎゃくに高校生の制服に違和感があるんだよなあ。自分たちの校風としては自由、自主独立と言うのがあり、「私服」というのはその象徴であったのかもしれない。僕も私服と言うのが高校を選んだ動機のひとつだったかも。
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制服にはもちろん効用がある。僕の会社だって社長も含めて事務職も運転手も制服着用だ。私服にするなんてことは考えられない。対外的なイメージ統一もあるし、皆が同じ服装をすることで意識の統一、連帯感が生まれることはいまさら言うまでもない。とても便利な「ツール」である。

しかし、昨日の制服を採用した高校の校長先生の話を聞いていると、あまりにも管理する側の「ツール」としての制服の効用が協調されているような気がして。
高校と言うレベルで考えるなら、制服というツール(管理する側から見て)がなくても連帯感を保てる人間を学校は生産する努力をすべきなのではないか?と。ツールを使ってはじめてやっとまとまるような集団を生産されても生産現場としてはレベルが上がっていかないんだと・・・・。子供は管理の中では人材は雌伏してしまうんではないかと?

最初から、便利なツールを使って調教してしまうとその人間の器が小さくなる気がするんだよね。これは今の管理者側からの勝手な視点か?それとも管理されるということが大嫌いなぼくの勝手な視点だろうか?
個人的には人に連帯感を強要されるなんて真っ平だけれど。人と違うのがいやだから制服にする、といってた昨日のテレビに出ていた高校生はそこに気づくときが来るだろうか。
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なんていうか。制服っていうのはスパイクシューズみたいなもんか。下手するとドーピングか。それくらい強い力があるようなものの気がする。それを子供のときから、とくにその効用を意識してツールとして使わせると、伸びしろがなくなるような気がするんだ。小さなときから道具に頼ってたら本当の能力はつかないし、能力のある人間をセレクションすることができないような。

それはなんだか、学年的には背の高い子供を集めたサッカーチームが、子供のときは強いけれど大人になったら勝負にならないような。基礎学力だけしかない子供からは天才が生まれないような。

自分で言ってて何をいいたいのかよくわからんけれど。「気づき」の機会を奪っているような・・・。

2 件のコメント:

ラチェット さんのコメント...

個性溢れる人間、或いは天才というのは、
決して、狙って作れるものでは無いように思えます。
 
型にはめたらメゲルようなのは、個性でもなんでも無く、
最初から無かった、ただの勘違いでしょう。
ガッチリと型にはめて、そこからはみ出して来たものが個性なのでは無いでしょうか?
 
大部分の人間は、個性は備えて無く、
型にはまる事で、その型で、生きて行く事を可能にしています。

ならば、先ずは、ガッチリと型にはめて上げる事こそが、
大人の義務なのでは無いでしょうか?
 
ただし、
いまどきの学校は、学校管理者側が、ラクをしたいが為に、
型を利用しようとしているきらいがあるので、
これは、問題外。
もっとも、社会全体が、パターン分けで済まそうとしているので、
その裏写しなのかもしれませんがあ。

ラチェット さんのコメント...

古くは、世阿弥の「守・破・離」の考え方がありますし、
立川談志師匠も、師匠の役目は、
先ずは、弟子をガッチリ型にはめる事と言っています。
「型の無ぇやつぁ、型無しって言うんだな」
とオチまで付けていましたw
 
私は、包丁を握っていたころ、
毎年たくさんの若い衆を見ていました。
そこで、育ててやろうなんざあ、おこがましい、
個性なんざあ、ほっておいても出て来るものだ、
と実感して、↑のような考え方に辿りつきました。